概要
『日本国紀』の中に書かれていなかった内容がふんだんに入っている。特に教科書問題についてである。
民族の物語
歴史とは壮大な民族の物語である。しかし、今ある教科書や歴史の本はそれを物語として捉えていない。
海軍総督
世界史上に残る海軍提督といえば、一人はイギリスの海軍軍人で、フランスとのトラファルガーの海戦で有名なネルソンである。ネルソンはこの海戦でナポレオンを打ち破り、彼のイギリス遠征計画を諦めさせた。もう一人は東郷平八郎である。日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させたことで有名である。
教科書誤報問題
教科書は今現在も、南京大虐殺のような現実にはなかったことを平気で教えている。
昭和57年に教科書誤報問題が起きたのが、その発端。高校で使用される歴史教科書について文部省の検定で侵略が進出に書き換えられたと日本のメディアが一斉に誤報を流した。そして実際には書き換えの事実がなかったにもかかわらず、当時の宮沢喜一官房長官が談話まで発表した。その後の検定基準には、近隣アジア諸国に必要な配慮をするという、近隣諸国条項が加えられた。
WGIP
日本は戦後、アメリカ軍、連合国軍に占領された。そしてGHQはウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)という占領政策で日本人に罪を植え付けた。WGIPとは、戦争への罪悪感を日本人の心に植え付けるGHQの宣伝計画である。これを徹底して受けた日本人の精神は壊され、いわゆる自虐的な考えになってきた。
例えばアメリカ軍が、7年間日本を占領してまず行ったのは焚書坑儒である。かつて秦の始皇帝は、本を焼き、儒者を生き埋めにして殺し、思想言論の弾圧を行ったが、それと同じである。
占領下でこの坑儒に相当するのが公職追放である。アメリカ軍は政界、財界、言論界と20万人を超える、占領軍にとって好ましくない人物が公職から追放した。もう一つの焚書は実際に行った。7000点以上の本をGHQは燃やした。
また、プレスコードもあった。GHQが行った新聞や出版物に対する検閲である。
戦犯を助ける
サンフランシスコ講和条約で日本が主権を回復した途端、まず起きた社会運動が戦犯を助けようである。当時の日本の人口は約8500万人であるが、そのうちの4000万人もの署名が集まった。4000万人という数は、当時の成人のほとんどが署名した。
国会はそれに応え、戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案が衆議院に提出し、全会一致で決議された。
万葉集
万葉集とは現存する最古の和歌集であるが、何よりすごいのは、そこに掲載されているのは王侯貴族の歌だけではない。下級役人や農民や防人など、一般庶民ともいえる無名の人々から、遊女や乞食などの最下級の人の歌までが網羅している。
和歌という素晴らしい芸の前には、全ての人は平等ということである。決して身分の高い人たちだけの歌ではない。素晴らしい歌を詠めば、そこに身分の差がないということである。
ダライ・ラマ
例えばダライ・ラマ5世は偉大なる5世と呼ばれているが、その後の6世は女にうつつを抜かして、最後は撲殺されている。しかし、今チベット亡命政権の本拠地であるインドのダラムサラの街に行くと、何軒かある書店では、現在の偉大な14世の本の隣にその6世の本が並んでいる。なぜかというと、恋の詩を沢山書き残したからである。それが実に素晴らしいとチベット人はいう。
ヒストリー
歴史は英語でhistoryという。このヒストリーと物語を表すstoryは同じ語源である。同じ言葉からヒストリーになり、ストーリーになった。
だから本来、歴史とは物語である。
元寇
元寇は鎌倉武士たちが国を守った物語である。
特にすごいのは、二回目の弘安の役で十数万人という世界戦史上に例のない軍勢がやってきた。高麗と江南から約4400隻の船に十数万人の兵を乗せてやってきたのですが、これを鎌倉武士団は、九州本土に上陸させなかった。
大伴部博麻
大伴部博麻は千数百年も前の人で、663年の白村江の戦いで捕虜になった一般武士である。
白村江の戦いは日本・百済と唐・新羅の戦いである。その戦いで大伴部博麻は捕虜になり、唐の長安に連れていかれて、そこで生活していた。捕虜といってもかなり自由にあったようで、そこで同じように半幽閉状態だった遣唐使4人と友達になった。彼らはある時、唐が軍隊を組織して日本を侵略しようとしているという噂を聞いた。
知らせる方法がない。日本に帰ることができない。旅費がいるが、とてもそんな金はない。
その時大伴部博麻は自ら奴隷として売って、その金を4人の遣唐使に渡した。遣唐使たちはその金で671年にようやく日本にたどり着いて、朝廷に唐の侵略計画を知らせる。
平和ボケ
ペリーがくる1年前、1852年にオランダの商館長が幕府に来年、ペリーが来ますとアメリカ艦隊の開国要求のための来航情報を伝えている。
ペリーがやってきた時日本には何の対策もなかった。1年前にペリーが来るとわかっていたのに何の対策も練っていなかった。
幕末の日本人は平和ボケになっていた。
江戸から東京
文化の断絶なのが江戸が東京になったことである。
1868年に東京と変えた。明治天皇が江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書を発し、江戸は東京となったのですが、東の京という人工的な無機質な名前である。
要するに明治政府は江戸の痕跡、幕府の功績を全部消したかったのだ。
古市公威
帝国大学の工科大学初代学長である古市公威は、内務省土木局長を兼務していた。つまり、日本の近代土木行政や工学教育の基礎を作った人である。彼がフランスで留学していた時、土木工学を不眠不休で勉強していた。その勉強ぶりを見たフランス人の下宿のおばさんが心配して少し休みなさいと言ってくれた。その時に古市は自分が1日休むと、日本が1日遅れますという有名な言葉を言った。
犬のお伊勢参り
日本は1700年代にすでに京都から江戸まで女性が一人旅ができた。街道には宿場町ができて旅籠も整い、移動には駕籠も馬もあった。
そうして街道が整備させてから流行ったのがお伊勢参りである。とにかく一生は一度お伊勢参りをするといって、みんなお伊勢参りをした。
ところがお伊勢参りに行こうと働いて働いて、いざ行こうとなったら年をとってしまって足腰立たなくなったり、病気で行けなくなったりする人がいる。そういう人は自分の飼い犬をお伊勢参りに行かせた。犬の首にお参りに持っていく巻物とかお供物をぶら下げである。
あと路銀と自分の家の住所を書いた札も犬の首にぶら下げて、行かせた。すると道中、お伊勢参りに行く人たちが犬を連れていってくれる。
旅籠の人も首にぶら下げているお金をちょっと取ってそれで餌をやる。
犬は最終的にお伊勢参りに行く。すると今度はそこにいる人が首についている住所を見ながら、連れて帰ってくる。
60年安保
60年安保の時に安保闘争があった。あの時にエリート学生たちがこぞってデモに参加したが、のちになって有名マスコミ人がテレビ番組で、当時の経験を振り返り徹夜で座り込みをしたけれど、あの頃実は安保改定の中身はよくわからなかったと述懐している。
日本国憲法
日本国憲法の草案は、GHQのわずか二十数人のメンバーが一週間程度でつくった。憲法学者の西修先生が、1980年代にアメリカに言って、当時、存命だった起草者に話を聞いた。すると彼らからまだあれを使っているのかと逆に驚かれたという。つまり日本国憲法の草案を作った彼ら自身が、暫定的なものだと考えていた。
憲法学者は何をしていたか。事件が起こってその処理で法律の解釈が必要になったりすると、それが日本国憲法に照らし合わせて正しいかどうか、そればかり考えている。つまり彼らにとって日本国憲法は聖書になっている。