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『「日本国紀」の天皇論』 感想

 

概要

『日本国紀』の筆者と編集者との対談本。天皇の存在の大きさを知ることができる。

 

令和

「令和」は 史上初めて国書、万葉集から採られた。『万葉集』は1200年以上前に編纂された日本最古の和歌集である。下級役人や農民、防人など一般庶民とも言える無名の人々から遊女や芸人などの最下級の人の歌までが網羅している。

 

権威

平安の終わりには天皇は権力の座を降りて権威になった。世界の歴史では、権力の座を奪われた者は、新しい権力者によって例外なく殺される。ところが日本の天皇はそうではなかった。平安の終わり以降、日本には権力と権威が分かれて存在することになった。

 

錦の御旗

戊辰戦争は、旧幕府軍と薩摩・長州の新政府軍との間で行われた慶応四年の鳥羽・伏見の戦いから始まった。新政府軍は最新式武器を装備していたが、数では旧幕府軍が圧倒していた。

ところが朝敵を討つ時の旗印である錦の御旗が挙げられた途端、多くの藩が新政府軍に加わり、旧幕府軍は総崩れになった。

錦の御旗には弓を引けない。それをした瞬間に朝敵になる。つまり、政治の実権から遠ざけられていた天皇の力は800年間、実は消えていなかった。

 

光格天皇の時

約240年前の光格天皇の時に危機があった。光格天皇は、閑院宮典仁新王の第六子で、安永八年、後桃園天皇の養子として10歳で即位した。この時、閑院宮家がなければどうなっていたか。

桃園天皇には女のお子様しかいらっしゃらなかったから、閑院宮家から養子をお迎えになった。閑院宮家創設には、新井白石の先見の明があった。六代将軍・徳川家宣の侍講だった新井白石が、皇統の断絶を心配して宮家を立てた。

 

民のかまど

仁徳天皇は高台に登って、民のかまどからご飯を炊く煙が出ていないのをご覧になり、民衆が苦労しているのではないかとお考えになった。そしてこれから三年間の税を免除しようと仰った。さらに仁徳天皇はご自身も、着るものも買わず、御所の部屋や塀が壊れても修理されませんでした。

そうして三年が経ち、ようやくかまどから煙が立ち上がるようになった。それをご覧になって仁徳天皇は私はすっかり富んだ。どうして憂えることがあろうかと喜ばれた。

 

御前会議

昭和20年8月10日の御前会議は、午前0時3分から始まった。司会の首相を除く六人はポツダム宣言受託派と徹底抗戦派で真っ二つに分かれた。

膠着状態で会議は続けられ、午前2時までの間、昭和天皇は一言も発言されませんでした。この時、昭和天皇は44歳である。

ところが午前2時が過ぎてもまったくの膠着状態だったため、鈴木貫太郎首相が、自体は極めて緊急であって、一刻の猶予も許さない状態であるから、甚だ先例もなく懼れ多いことであるが、ここで陛下の思し召しを伺うことによって、われわれの決心を決めたいと思うということを言ったのである。

ここで昭和天皇はそれならば言おうとお話しになった。自分は外務大臣の意見に賛成である。

外務大臣の意見というのはポツダム宣言受託である。この瞬間にポツダム宣言受託が決まったのである。

 

責任

日本は敗れ、連合国軍に占領された。昭和天皇は9月27日にアメリカ大使館でダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官と会談された。

そこで昭和天皇が何を仰ったか。責任はすべて私にある。こう仰った。そして次のように述べた。文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうとも構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。

これを聞いたマッカーサーは大変な感銘を受けるのである。

 

天皇という言葉

天皇という言葉を何気なく使っているが、文献史上では聖徳太子が隋の煬帝に出した手紙(国書)が初出である。

 

内閣法制局

内閣法制局天皇陛下の存在をないがしろにするような法的解釈をしてきたのである。

元号が憲政史上初の事前公表になったのも、天皇陛下が仰っていた譲位を退位と言い続けたのも、内閣法制局が諸悪の根源である。

内閣法制局とは、内閣を補佐する行政機関である。ただし非常に強い力を持つ官僚組織である。閣議にかける法案などを審査したり、法令解釈に意見を述べたりする役割があることから、法の番人とも言われる。

法令解釈について各省庁に意見できる。彼らが違憲の疑いと反対すれば、それで法案は止まってしまうわけであるから、絶対的な権力を持っている。

 

 

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