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『朝鮮通信使の真実 江戸から現代まで続く侮日・反日の原点』 感想

 

概要

「(日本人は)穢れた愚かな血を持つ獣人間だ。」

暴言を吐いた人の名前は金仁謙(キムインギョム)、18世紀の朝鮮王朝の中央官僚で、トップ級の科挙試験に合格した朝鮮一流の知識人である。1764年、朝鮮から第十一回目の通信使が派遣されてきた時、高級官僚の金仁謙は使節団の一員として来日した。

今の日本の多くの教科書や専門家が歴史上の朝鮮通信使の来日は友好交流の旅だと持ち上げているが、友好交流の使者の一人であるはずの金仁謙は一体どうして、日本人に対してそれほど憎しみに満ちた暴言を吐いたのか。

その結論とはすなわち、一流の朝鮮知識人達が日本や日本人に対してあれほど悪質な罵詈雑言を浴びせたのは、そして日本人のことを禽獣(きんじゅう)だと極力に貶めたのは、それらは全部、彼ら朝鮮知識人の日本に対する深刻な劣等感、コンプレックスの裏返しでしかないということである。

本書は、現在には一種の国民精神として受け継がれてきている朝鮮知識人の歪な対日精神構造を浮き彫りにしていくことになる。

 

朝鮮通信使派遣

江戸時代の慶長12年から文化8年までの二百数年間、隣の朝鮮王朝から十二回にわかって、徳川幕府に外交使節団を送られたことがある。日朝交流史上有名な朝鮮通信使の派遣である。

朝鮮は日本の徳川幕府慶事(けいじ)がある度に祝賀の使節団を派遣してきたのに対し、日本側は朝鮮王朝の慶事を祝うための使節団を派遣したことは一度もないのはどういうことなのか。

実は江戸時代以前では、日本は盛んに朝鮮に使節を送っていた。朝鮮王朝が成立したのは1392年のことであるが、その時の日本は室町時代の最中であった。そしてこの時代、朝鮮は時々日本に使節を派遣してきたのに対し、室町幕府の足利政権は実は六十回以上にわたって朝鮮に日本国内使使節を送った。

現代の教科書や歴史書の多くは、朝鮮通信使のことをまさに信を通じ合うための善隣外交だと捉えている。しかし普通、国家間の善隣外交というのは相互的、対等的なものであるはずである。つまり、朝鮮王朝が江戸幕府慶事祝賀のために十二回も使節団を派遣してきたのならば、その返礼として日本は本来、朝鮮王朝の慶事お祝いのために朝鮮に使節を派遣しなければならない。しかし実際、江戸幕府はこのようなお祝いの使節使節団を朝鮮に派遣したことは一度もない。

 

日本から朝鮮に通信使を派遣しなかった

これに関して、朝鮮通信使を取り扱う多くの書物には、一つの解釈が時々現れてくるのである。この解釈とは、江戸幕府は朝鮮に通信使を送らなかったのは、朝鮮側がそれを望まなかった、あるいは受け入れたくなかったからだということである。

このような解釈は一見、説得力があるように見えるが、よく考えてみればそうではない。江戸時代の初期、秀吉の朝鮮出兵の記憶がまだ鮮明であった時には、朝鮮王朝が日本の徳川幕府にある程度の警戒心を持っていたことは考えられようが、それがその後二百年間も続いて、朝鮮王朝が日本使節団を受け入れたくない理由にしているとは考えにくい。

 

朝貢

中国大陸周辺に位置する諸民族・諸国が、定期的に中華帝国使節を派遣し、天朝に対する服従と忠誠を示すための朝貢を行うことである。

日本こそは例外であるが、朝鮮通信使が派遣されたその時代、朝鮮や琉球、あるいはベトナムの王朝が、最初は中国の明王朝、その後は清王朝に対してまさに臣下の礼をとって朝貢使節を派遣し続けた。

 

四度半の礼

第一回目の朝鮮通信使が江戸に到着したのは1607年5月24日のことであるが、通信使が江戸城に上がって徳川将軍に朝鮮国王からの国書を呈したのは6月6日である。国書伝達と呼ばれる儀式が江戸城大広間で執り行われた。

第一回目の朝鮮通信使による国書伝達の儀式の全過程であるが、この儀式において、朝鮮通信使の三使臣(ししん)が将軍に向かって四度半の礼は拝礼したことは大変重要なポイントである。

四度半の礼は普通、主君に対する臣下の拝礼をすることがあるが、朝鮮王朝と徳川幕府との関係は対等的なものである場合、朝鮮国王の名代である三使臣は、将軍に対してこの四拝の礼を行うことはなく、二度半の礼をとるべきところである。

この一件から、朝鮮王朝から日本に派遣された通信使は、まさに朝貢使節団そのものであることが分かる。

 

国内政治利用

中国皇帝の周辺国の朝貢に対する政治的利用の一つは要するに、諸国からの朝貢を受けることによって自分こそが至尊(しそん)至高の天子様であることを天下万民に示し、自らの政治的権威を固めることである。朝貢はそういう意味では、皇帝の権威に対する格好の箔付け、あるいは飾り物となるのである。

徳川幕府もまさに、中国皇帝とは同じような感覚で朝鮮からの通信使を箔付けの朝貢として利用している。

第四回目の招聘(しょうへい)は泰平の賀としている。つまり、日本国内で将軍の代わりがあったわけでもないが、単に日本国の泰平を祝賀してもらうために朝鮮通信使を招聘したわけである。一方の朝鮮側は徳川幕府から言われたままに泰平祝賀の通信使を大人しく出した。このことから見ても、当時の日本と朝鮮との関係は決して対等の国家間関係ではなく、むしろ日本の方は常に上位に立っていることが分かる。

 

事大外交

朝鮮王朝が、その成立した時から国策として採用した事大外交の伝統である。事大とは要するに大に事なる=大国に使えるという意味合いであるが、朝鮮王朝はその成立した時点からまずは隣の大国の中国(明王朝)を事大の対象にして中華帝国に従属する国策をとった。

朝鮮が明王朝に対して事大外交を行った背景には当然、中華王朝の高度なる文化・文明に対する朝鮮人の憧憬(しょうけい)と敬意があろうが、もう一つの大きな理由は安全保障上の考慮ではないか。

王朝の創始者李成桂中華帝国明王朝に対する事大外交の国策をとることによって、大陸からの軍事的脅威を未然に取り除くことに成功したのと同じように、文禄・慶長の役の後の朝鮮王朝は、海の向こうから突然現れてきた日本の軍事的脅威に対処するために、徳川幕府に対してもやむを得ず、事大外交を進めたわけである。

 

後金

1588年、すなわち文禄の役の四年前、ヌルハチという人物が女真(じょしん)人の一支族である建州女真をまとめ上げたことで女真人の統合が急速に進んだ。そして1616年ヌルハチ女真人各支族を統一して後金(こうきん)という国を建国した。

統一しされた女真人の国は当然、隣接する朝鮮にとって潜在的な軍事脅威となる。それ以来、この大陸からの脅威をいかに対処するかは朝鮮王朝にとって安全保障上の大問題となってくる。

 

朝鮮王朝にとって現実の脅威へ

ヌルハチの後継者であるホンタイジは1627年に三万人の大軍を率いて朝鮮半島に攻め込み、首都のソウルにまで達した。1636年、満州地域全体を制覇して国名を清に改めて皇帝を名乗ったホンタイジは、再び朝鮮に侵攻して朝鮮に対する宗主国の立場を確立した。そして1644年、清朝軍は北京に攻め込んで朝鮮従来の宗主国である明朝を滅ぼし中国大陸全体を支配した。

大陸におけるこのような勢力交代の中で、朝鮮は清朝の属国となって清朝皇帝に対する朝貢を余儀なくされた。

 

安全保障上の理由

朝鮮王朝は、文禄・慶長の役において顕在化した軍事強国・日本からの潜在的脅威を未然に取り除くことと女真人の台頭と後金・清王朝の建国で顕在化した大陸からの脅威に対処するために日本の力を借りたいという二つの安全保障上の理由によって日本に対する事大外交を進めた。

 

日本への朝貢を認めたくない

朝鮮王朝と朝鮮の知識人にとっては耐え難いほどの屈辱であった。朝鮮王朝の伝統的意識においては、小中華である朝鮮こそは本家の中国に次ぐ二番目の文明国家であって文化大国であるから、日本よりもずっと格式の高い国である。

本来、日本こそが平身低頭して朝鮮に朝貢してくるべきであってその反対ではない。朝鮮が日本に事大して朝鮮使節を派遣するなんかはとんでもない話である。

しかし、こうした一方的な主観認識とは裏腹に、現実はまさにその反対である。

 

 

交隣

京都大学名誉教授の夫馬進氏の名著『朝鮮燕行使と朝鮮通信使』において、朝鮮王朝は自分たちの日本との関係を交隣(こうりん)と呼ぶことにしているが、彼らが言うところの交隣とは決して隣国同士の対等的な交わりではなく、むしろ上目線からの付き合ってやるという意味合いである。

 

『海游録』と『日東壮遊歌』

遣唐使たちの書き残した日本紀行がまとまった書籍として日本に刊行されているものがある。その一冊は、申維翰(シンユハン)著『海游録』であり、もう一冊は金仁謙著『日東壮遊歌』である。

多くの朝鮮通信使の場合とは同様『海游録』に収録されている日本紀行あるいは日本論評は、まさに悪意に満ちた日本貶しのオンパレードである。

対馬藩の府中に到着した当日の日記において、対馬藩民のことを評してこう記した。

「民の俗は、詐(いつわ)りと軽薄さがあって、欺くを善(よ)くす。すなわち、少しでも利があれば、死地に走ること鷲の如くである」

日記の中でこのような罵倒文を書いた時、対馬をこの目で見たのはわずか数日間、接触した対馬人も限られている。彼は一体どうやって、そして一体どのような体験から対馬人に対する悪評を引き出したのか。

これはどう考えても客観的な観察に基づく正当な論評であるはずがない。

 

下記書籍参照