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『日本、遥かなり エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』 感想①

 

概要

本作品において、最も大切な国民の命をないがしろにする日本という国の過去、現在、未来について、書かれている。

 

 

ノルマントン号事件

1886年に、紀伊大島で大きな事件が起こっている。それは後にノルマントン号事件と呼ばれ、紀伊大島の住人だけでなく、日本中を憤激させる大事件となっていくものである。

1886年10月24日午後8時頃、イギリスの貨客船ノルマントン号は、横浜港から神戸港へと向かう途中、串本・樫野埼(かしのざき)の沖合で暴風雨に遭い、座礁、沈没した。

船長以下26名の乗組員は、救命ボート4隻で全員脱出を果たした。

しかし、この船には日本人が25名乗っていたことがわかった。しかも、その中に生存者は一人もいなかった。

船長以下26名の欧米人が助かっているのに、なぜ同数いた日本人は一人も助からなかったのか。

国民の悲憤が頂点に達したのは、この船長にお咎めなしの判断が下された時である。

当時、まだ不平等条約の改正を行えずにいた日本では、海難審判はイギリスの領事裁判権に基づかねばならなかった。

 

エルトゥールル号事件

1890年9月16日の夜。夜が更けるにつれ、風は、樹木を根こそぎ倒すかと思えるほどの勢いになっていた。その時、エルトゥールル号656人の乗組員たちの多くは、海に投げ出された。

樫野の住人が、外国船難破という事実に直面するのは、9月17日早朝のことである。

樫野埼灯台の南側の海岸線は、高さ30メートルほどの崖が続き、上り降りは難しい。 

その場所で一人、また一人と、傷だらけの異人が崖を上がってきていた。

担架がないため、この人らを運ぶ方法がない。それで一人を上まで担ぎ上げるのに3人、4人がかりでやることになった。相手の身体は大きいが、こちらは小さいのである。

救命活動

冷え切った遭難者たちの身体を温めるために風呂を焚くことになる。そのために水運びが必要になる。水は、百メートルほど離れた谷底にある井戸から運ばなければならない。

また圧倒的に不足したのは、衣類や布団である。

向こうの人は身体が大きいので、浴衣が膝までになる。一枚の布団へ3人も4人も5人も入れた。そのため、どうしても身体が温もらない。それで、横になっている人を背中から人肌で温めた。

食料もコメは、正月用のものを持ち寄って、それを炊いた。また滅多に食べることができない鶏も出した。

それはまさに村人総出の介抱である。

親日国の誕生

その後、紀伊大島の大島地区の蓮正寺(れんしょうじ)に負傷者は運ばれ、結果計69名の人々が命を取り止めた。

軍艦『比叡』『金剛』が、治療を受けていた生存者たちを帰国してもらった。オスマン帝国の首都・イスタンブールに軍艦が到着したのは、翌年1月2日のことである。オスマン帝国の国民は、傷ついた同胞をはるばる送り届けてくれた日本からの一行を熱狂で迎えた。

時代を経て、トルコ共和国の小学校5年生の教科書には、このエルトゥールル号遭難事故のことが紹介されている。

 

テヘラン空爆

1985年3月4日、イラク空軍機二機が、イラン南西部の主要都市アフワズをロケット弾で攻撃すると、5日には、今度はイラン軍がイラクの主要都市バスラを長距離砲で砲撃。

そして3月11日の昼間、ついにイラン空軍機がイラクの首都バグダッドを攻撃したことによって、テヘラン空爆があることをある程度予測できた。

次の日の夜中2時半頃になって、恐れていたイラクによる爆撃が現実のものとなった。

型破りな公使

テヘラン空爆の際に、大使館に陣取って指揮をとることになる幹部の一人は、高橋雅二がである。

テヘランに赴任してくる商社やメーカーといった各企業の幹部たちは、公使たる高橋のもとにやってくるのが通例になっていた。

「いま、一見平和に見えますが、いずれ日本人の引き揚げということが起こる。いざという時になると日本政府は頼りにならない」

日本大使館のナンバー2に面と向かって言われる。

当時、国際線の定期便を持つ航空会社は、日本航空だけだった。そして、政府専用機も持っていなかった。

その上、自衛隊機が海外に出ることには、法律の壁があるだけでなく、世論の反発が予測された。

表明

3月17日夜、事態を急変させる出来事が起こった。

イラク軍は、今から48時間後により、イラン全土上空を戦争空域に指定する。すべての民間機が攻撃を受ける可能性がある。国際線航空会社は、イラン上空を通過することがないよう警告する」

つまり、3月19日午後8時以降、無差別に攻撃されるという意味である。

イスタンブール事務所

「トルコ政府を動かして、イラン在留邦人のために、トルコ航空に救援機を出してもらってくれ」

そんな緊急電話が、東京の伊藤忠本社はイスタンブールにかかってきた。受け取ったのは同社のイスタンブール事務所長、森永堯(たかし)である。

日本の農業技術に大きな関心を示していた人物と森永は知り合った。それが、経済官庁での勤務を経て、いくつかの民間企業の顧問を務めていたトゥルグット・オザルである。

二人は苦しい時期を一緒に乗り越えた、まさに戦友だったのである。

オザルは、トルコの首相に上り詰めていた。共に辛酸を舐めた戦友が、ついに首相にまでなっていた。

助け

森永は受話器を手を伸ばした。

「トゥルグット・ベイ。助けてください」オザルに呼びかけた。

「日本の航空機かイランの航空機が救援すべきなのです。けれど日本は救援機を出そうにも遠すぎて、サダム・フセインの出した警告の時間に間に合わない可能性があります。また、イラン航空にしても戦争中なので便数に余裕がありません。いま、日本にとって頼れる国はトルコしかないのです」

オザルは、黙って森永の話を聞いていた。オザルの沈黙が続いた。

どのくらい経ったか。

「わかった。心配するな。親友モリナーガさん」「後で連絡する」

それからしばらく経って、電話が鳴った。

「すべてアレンジしたよ。親友モリナーガさん」

「日本人救援のために、トルコ航空テヘランに特別機を出します。詳細はトルコ航空と連絡を取ったらいいですよ」

「ありがとうございます」

森永は、何度も繰り返した。

夜のテヘラン

日本大使館に、トルコ航空による救援機派遣の報が入ったのは、3月18日夜のことだった。

野村豊大使もビルセル大使に、トルコ航空に救援機を出してもらえないかと相談していたからである。

「皆さん、手分けして邦人全員に連絡してください」

野村大使は、大使館員にそう告げた。

テヘランで、何かの時に逃げ込めるのは、ホテルしかない。

夜のテヘランのホテルを一つひとつまわって、そこにいるかもしれない日本人たちに連絡をつけていった。

3月19日午後5時10分、トルコ航空機は飛び立った。乗客から歓声が上がり、拍手が沸き起こった。

 

 

クウェート侵攻

日本航空クウェート支店三手哲夫の当時の日記には、緊迫の様子が単語か、短文で記述されている。

「5時50分、イラク侵攻確実と判断した」

「6時、砲撃音あり」

大使館地下での避難生活

クウェート日本大使館は、総勢11人の職員がいた。しかし、イラクの侵攻当日、大使は休暇でクウェートから出ており、不在だった。代わりに指揮を取ったのは城田安紀夫参事官である。

大使館は三階建てで、集められた在留邦人およそ250人は、地下の大広間で雑魚寝することになった。

大使館の機能停止

クウェートという国は、すでに消滅している。一国に二つの大使館いらない。いずれのの国の大使館も機能を停止させる」

そんな衝撃的な発表が行われたのは、8月21日であった。

「外務省本省はバグダッド大使館の管轄下のほうが、より安全と思われるため、8月24日をもってクウェートよりバグダッドへ移動するよう勧告する」

8月21日午後7時半、城田代理大使からそんな発表があった。

クウェート日本大使館にいた約250人の在留邦人が四機の飛行機に分乗してバグダッド入りしたのは、1990年8月23日のことだった。

飛行機から降りたらバスが待っていて、法人と一般客は別々のバスに乗せられた。午後1時前にマンスールメリアホテルに着いた。

午後7時過ぎ、イラク側から、ホテルにいる法人たちに、こう命令した。

「15分以内に15名出せ。日本人を二班に分けろ」

完全な人質である。

この時、すでにイラクは人質化政策を世界に向けて発表していた。

明朝出発を言い渡せた。

指示は十五班に分けろというものだった。これまで一緒だったのにバラバラにされた。

人質生活

アラビア石油クウェート事務所技術調整役の夫長谷川捷一と妻悠紀子は、日本の千代田化工が建設したベイジ製油所に降ろされた。

こうして長谷川夫妻は製油所での人間の盾として生活が始まった。

婦女子解放

イギリスのマーガレット・サッチャー首相は、フセインに対してメッセージを送っていた。

イラクの行為は文明化された世界に対する憎むべき挑戦だ。人間を盾に使うという人権を全く無視した行動は市民社会全体を愚弄している」

サダム・フセインは、婦女子を盾に使い、その陰に隠れようとしている」

流石のフセインも、これには堪えただろう。

8月26日、ようやく答えが出た。

BBCで婦女子解放のニュースが流れた。

悠紀子は前向きだった。

「あの時、女子供の中で、希望する者は帰っていいという言い方をイランはしたんですよ。夫と最後になるという思いは、全然なかったんです。これからどうやって夫を救出しようかとそっちのほうを考えました。」

日本に帰る時に、飛行機の中で、みんなでなんとかしましょうという話をした。クウェート婦人会の名前はあやめ会だったので、あやめ会として活動を始めた。

あやめ会

あやめ会の活動は、果敢なものだった。

国会議員会館をまわり、直接、政治家たちに行動を起こしてもらうようお願いしまわった。その中で、国とは無関係に、直接、イラクに乗りこんだ政治家がいた。参議院議員アントニオ猪木である。

猪木を迎えたのは、バグダッドの日本人会である。同会の副会長伊藤忠の野崎和夫・バグダッド事務所長が重要な役割をする。

猪木はふとこんな言葉を漏らした。

「平和の祭典というレスリングをやれないでしょうか」

どういう意味かわからなかった。

しかし、考えてみたら、人質というのに、イラク国内のどこにいるのか、わからない。その人たちを一箇所に集めるためには、何かイベントが必要である。

野崎はやってみる価値はあると思っていた。

救出の手

イラクで最も名前が知られていた中曽根康弘元首相に白羽の矢が立っていた。

イラクは人質解放を取引材料として、各国と密かに水面下のアプローチをはかっていた。中曽根元首相の訪問の地ならしのためにやって来た自民党佐藤文生に対しても同じである。

「明日の朝7時に出れるよう、準備しておくように」

イラク人の監視人から長谷川は突然、そう告げられた。

11月8日午前11時過ぎ、悠紀子はやっと夫を迎えることができた。解放された人質は結局、74人にのぼった。

土壇場の攻防

平和の祭典を行う猪木たち一行に、あやめ会の夫人たちも加わって、バグダッドに向かったのは、1990年11月30日のことだ。

その頃、外務省は各企業にイラクに夫人たちを行かせないようにと圧力をかけていた。

アントニオ猪木が、人質の夫人たちを連れてバグダッドに乗り込んだのは、12月1日のことである。

人質になっている夫と、あやめ会の夫人たちとの面会が実現したのは、12月3日午後3時、感動の対面が始まった。

3日午後8時、ウダイ(フセイン大統領の長男)から猪木サイドに連絡が入った。

仲介の労をとっていた野崎はウダイに向かって話した。

「彼の尽力で平和の祭典が行われて、人質の人もやって来て、一緒に色々なものを観て、それに対して、あなたはこういう対応をしているというのをマスメディアに流しましたよね。しかし猪木さん自身のメリットは、何かありましたか。何もないじゃないですか」

事態が結末に迎えたのは、12月5日午後8時半のことである。

夫人たちが待つオリンピック委員会本部に、ベンツが9台現れた。

一緒に平和の祭典を観た後、人質として引き離されていた夫たちが降りてきたのだ。

間もなく現れたのは、ウダイである。

「皆さんは自由です」

ウダイはそう言った。人質解放が決まった瞬間だった。

全員解放

しかし、この時点で解放の対象となったのは、バグダッドにやってきた夫人たちのご主人だけだった。

各企業などへの外務省による圧力があったとはいえ、バグダッド行きを断念した夫人たちは、それは衝撃であった。

猪木と野崎はさらに交渉を継続した。

フセイン大統領の要請を受けて、人質解放を討議するイラク国民議会が開かれたのは、2日後の12月7日午前11時のことだった。

やがてイラク国民議会は、圧倒的多数で、外国人全員の出国を許可する決定を下した。

 

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