概要
本作品において、最も大切な国民の命をないがしろにする日本という国の過去、現在、未来について、書かれている。
前回の続きである。
イエメンから脱出
いきなり凄まじい音が伊東直子の耳に入った。
1994年5月5日早朝5時、中東にあるイエメンの首都サナアのことである。
寝ていた夫の伊東一郎は飛び起きていた。
対空砲火が始まっていた。そのまま何かが墜落するようなドーンという音がした。
夫婦は、お互いに目を合わせて同じことを考えていた。内戦がついに始まった。
青年海外協力隊(JOCV)のイエメン調整員事務所の所長として、伊東一朗は、3年前から同地で活動していた。
青年海外協力隊は、外務省が所管する国際協力機構(JICA)の海外ボランティアのための組織として、50年の歴史を持っている。
歴史と伝統の国
イエメンは、中東のアラビア半島の突端に位置する面積52万8千平方キロメートル、人口およそ2400万人を要する国である。
19世紀前半に東側に位置する南イエメンがイギリスの植民地となり、次いで北イエメンがオスマン帝国に占領された。
オスマン帝国の支配を受けていた北イエメンと、イギリスの植民地となっていた南イエメンの対立はあらゆる場面で顔を出し、特に、南イエメンがソ連の支援を受けて、1967年に共産主義国家南イエメン人民共和国となったことで、価値観や考え方の溝は、埋めがたいものとなっていた。
1990年、北イエメンと南イエメンは合併し、イエメン共和国が誕生したものの、対立の火種は残されたままだったのである。
車両燃料の情報
イエメン中部の最大の都市タイズから首都サナアへと続く街道のサービスステーションで、車両燃料を全く売らなくなった、という情報は大きかった。軍が、軍用車両などのためにすべて押さえたらしいという情報だった。これは、もう近い。それは内戦が始まる数日前だった。
救出にかけた大使
秋山進大使は、各国の大使に必死で頭を下げまくっていった。
イタリア大使やドイツ大使、フランス大使、イギリス大使、ジョルダン大使などに面会し、あるいは電話をかけて、邦人を乗せてもらえるように依頼していた。
ホテルへ
1994年5月8日、大使館から連絡がきた。
「飛行機が手配できたので、明日集合してください。JICA関係者は、これで脱出できます」
懸命の要請で、やっとドイツが首を縦に振ってくれた。
イエメンからの邦人脱出は、ドイツ軍機のおかげで成功した。
着いた先は、ジブチであった。フランスの軍事基地である。
伊東たちが真っ先にやらされたのは、難民登録であった。難民となった伊東たちが入ったのは、軍のキャンプであった。
「町にホテルか何かないのか」
伊東がそう聞くと、「ある」という答えが返ってきた。
「軍としては手配できないから、自分たちでやれ」と言われ、市内のホテルの電話番号と住所を教えてもらった伊東は、直接ホテルと交渉した。
ホテルに着いたら、「部屋はない」との返答だったが、「宴会場ならある」とのことだったので、伊東の交渉の末、ホテル側は伊東の要求に応じてくれた。
伊東は、ホテルからJICAのフランス事務所に連絡することができた。
早速JICAの職員が、フランス事務所から全員の飛行機代を持って飛んできてくれた。こうして伊東たちは、パリへ脱出できたのである。
自衛隊法の百条
1994年11月に、一部改正された自衛隊法の条文のことである。
在外法人等の輸送という項目が百条の八に追加され輸送の安全が確保されていると認める時は、航空機による当該法人の輸送ができるようになり、さらに、輸送は政府専用機で行い、困難な時は、その他の自衛隊輸送機でも行うことができるようになったのである。
その要件の中で、ことさら輸送の安全が強調されたため、紛争国への派遣は、事実上認められなかった。それは、マスコミや一部野党の強硬な反対論による。
朝日新聞の社説には、肝心な自国民の生命を守るという最も大切な視点が欠落していることに脅かされる。
リビア動乱
大手電機メーカーに勤める牧紀宏(まきのりひろ)は部屋の電気を消した。
花火を上げる時のようなパンパン・・・という乾いた音がした。
「これは銃撃戦だ」
2011年2月20日、間もなく日付が変わる深夜0時頃のことである。
2010年12月に勃発したチュニジアのジャスミン革命をきっかけに広がったアラブの春と呼ばれる騒乱であった。
チュニジア各地で始まった反政府デモが全土へ拡大して、23年間続いた独裁政権が崩壊し、さらに、エジプトに飛び火し、約30年に及ぶムバラク政権も倒れてしまった。
リビアが不穏なことになる、ということはまったく考えていなかった。何しろリビアはガダフィの国。独裁政権の中でも、ガダフィは絶対のため、ジャスミン革命がリビアに波及するという予想は全然してなかった。
2月18日の金曜日、ツイッターにアクセスできなくなった。同じ日に、フェイスブックがだめになって、会社のメールも受け取れなくなった。
日曜日にリビア人の現地スタッフが、何やら深刻なようすで牧たちに話しかけてきた。
「日本人たちはすぐにホテルに帰ってください」
それは、牧たちにとって、初めての危険情報であった。
牧はトリポリを出ることに決めた。
信じられない風景
トリポリ空港に異様な空気に包まれていた。
リビア最大の空港だが、日本で言えば、地方空港よりやや大きいぐらいの規模である。
建物に入れない人たちが外に溢れていた。
2月22日に、日本の大使館には「23日に牧が出ます」という連絡をあらかじめしていた。大使館からは、「空港で、日本の旗を持って待っていますので、探してください」
そんな連絡が来ていた。
駐車場をウロウロすると、大きな国旗を目印にして、各国の大使館の車があった。
日本人の大使館員の手には、沿道でマラソン選手に振るような小さな日の丸を持っていた。
どんなに遠くからでも目につく外国の国旗と比べて、あまりに小っちゃな日の丸。
その後空港ターミナルビルの入り口に行こうとしたが、押し合いへし合いの小競り合いの中、飛行機には乗れなかった。
どう突破するか
どうやって脱出するのか知恵を絞った面々は、仕事でお世話になっているコネを使って、空港の人波を突破しようと思いついた。空港に顔が利くリビア人に来てもらって、その人物と共に突破しようというわけだ。
私たちが頼ったリビア人が部下に命令して、その部下たちがそこにいる人たちを全部避けさせて、VIPのように中に入ることができた。
ビルの中は人が溢れていた。
牧たちは、リビア人の現地スタッフに情報収集を頼んだ。
その後現地スタッフが戻ってきた。
「マルタ航空の午後6時マルタ行きの便が取れました」
カウンターに行き、牧たちは搭乗券をもらった。しかし、そこには座席番号も名前も入っていなかった。
トリポリ空港からマルタまでは、30分のフライトであった。
邦人救出の歴史
在留邦人を引き揚げさせるということ自体が、あまり外務省の職責として考えられていなかった。
そういう意識が変わり始めたのは、1980年代の後半のことであった。
変わってきたのは、領事移住部に邦人保護課ができた頃であった。
大臣官房領事移住部に邦人保護課ができたのは、1989年のことである。
領事移住部の大幅な機構改革がおこなわれ、新たな領事移住政策課、邦人保護課、外国人課、旅券課と邦人特別対策室が設置、あるいは名称変更され、同部が再スタートを切ったのである。
手足を縛る要件
邦人救出問題について、2015年9月に成立した平和安全法制でも改正された。
自衛隊法の改正で、第八十四条の三として在外法人等の保護措置が新設されたのである。
在外法人が危機に陥った時、これまでの輸送だけでなく、救出・保護を自衛隊は行えるようになった。
しかし、その要件は三点が同時に定められた。
三要件をかいつまんで言えば、当該国が安全と秩序を維持しており、当該国の同意があり、さらに当該国との連携・協力の確保が見込まれる場合のみ、自衛隊は、在外邦人の救出・保護にあたれない。
だが、当該国が安全と秩序を維持している場合に、そもそも自衛隊が行く必要があるのだろうか。当該国が、それが不可能になっているからこそ、在外邦人の救出・保護が必要な事態になっているのではないか。
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