スーパースターブログ

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原始時代

古事記』『日本書紀

約1300年前の奈良時代、第四十代天武天皇の命令によって編纂された2冊の文書を完成した。『古事記』『日本書紀』である。両方を合わせて記紀という。『古事記』は日本の神話と日本の国の成り立ちを伝えるため、また『日本書紀』は日本の歴史を公式に伝えるために編纂されたと考えられる。

古事記』は、宇宙空間に最初に出現した神々の末っ子の伊耶那岐神(いざなきのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)が、日本列島の島々を生んだ国生み神話を伝える。

 

磨製石器

群馬県岩宿遺跡関東ローム層の中から石器を掘り出し、我が国の考古学史上の大発見となる。

人類の文化は、石を砕いて打製石器を作り狩猟をしたところから始まる。また土器が出現する前の段階なので先土器文化と呼び、その時代を先土器時代という。

日本では先土器文化はないものと考えられた。ところが、岩宿遺跡から石器が出土したことで日本にも先土器文化があったことが確認された。

世界史では、打製石器が普及してから後に、石を磨いて作った磨製石器が出現し、旧石器時代から新石器時代に移行するが、日本ではなぜか最も古い年代の石器が磨製石器で、その理由は謎とされている。

磨製石器の出現は、考古学上は、文明成立の条件の一つとされている。

現状で日本最古は約3万8000年前で、これは世界最古の磨製石器となる。

 

縄文時代

大平山元I遺跡という縄文時代草創期の遺跡で、現在は国の史跡に指定されている。

日本では、世界的に見えてかなり早い段階で素焼きの土器に縄の模様をあしらった縄文土器が作られた。それをもって縄文時代の始まりと定義している。大平山元I遺跡の土器には縄の模様はないが、この土器の出現で、縄文時代の始まりが遡った。この時代の文化を縄文文化という。

 

縄文人の生活

大森駅近くの崖に貝殻が積み重なっているのを発見した。

貝塚とは食べ残しやごみなどを捨てた遺跡で、そこからは貝塚や土器の破片、そして土偶、石斧、石鏃、骨格器、人骨器などが発見された。後に大森貝塚と呼ばれる。

骨格器とは、動物の骨格から作られた道具である。

人々は地面に掘った穴に柱を立てて、草で屋根を葺いた竪穴式住居に住み、集落を作って定住するようになった。青森県三内丸山遺跡からは、大規模な集落の跡が発見された。

女性をかたどったと思われる土偶は、子孫繁栄を願う祭祀に用いられたものだと考えられている。

縄文人の風習の一つに屈葬がある。屈葬とは、手足を折り曲げて葬ることである。死霊の活動を防ぐためとも、寒さを耐えるための姿勢ともいわれている。

 

日本の文明

日本列島から最古の磨製石器と最古級の土器が発見されているから、日本独自の文明の起源を持っていることになる。これを日本文明という。

人々は安定した食料を生産することができるようになると、定住して都市を形成し、神殿を建て、やがて古代国家を作った。祭りや戦いに使う青銅器が作られ、また文字が使われるようになったのもこの時期である。

 

天孫降臨(てんそんこうりん)

古事記』は天皇の祖先の起源について次のように記している。

国生み物語で日本列島を生んだ伊耶那岐神は、最後に身を清めてから左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月読命、そして鼻を洗うと須佐之男命が現れた。天照大御神は、父から高天原(天上世界)を知らす(治める)ように命じられた。

一方、葦原中国(あしはらのなかつくに)(地上世界)では、須佐之男命の子孫にあたる大国主神(おおくにぬしのかみ)が立派な国を作ったが、話し合いの結果、葦原中国天照大御神が知らすことになった。話し合いで国が譲られたので、これを国譲り神話という。

そこで、天照大御神は、自ら孫を葦原中国にお遣いになり、国を知らすように、命ぜられた。

この命により地上に降臨したのが、初代天皇とされる神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)の祖先にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)である。天つ神(あまつかみ)の孫が降臨したので天孫降臨という。

このとき、天照大御神邇邇芸命に八尺勾瓊(やさかのまがたま)、御鏡(みかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を賜いました。これが天皇天皇であることの証といわれる三種の神器である。

 

弥生時代

日本における本格的な水田稲作の開始は定説より約500年前早い紀元前1000年ごろであることが分かった。

従来、水田稲作朝鮮半島経由で日本にもたらされたとされてきたが、近年の研究により否定されることになった。日本の稲作開始年代が遡ったことで、朝鮮半島の稲作よりも、日本の稲作のほうがだいぶ古いことが分かった。

水田稲作は、殷と周の政変で日本に亡命した人々が、大陸から直接日本に持ち込み、日本人が朝鮮半島に伝えたことが判明した。

 

弥生文化

約2300年前になると、高温で焼き上げた赤褐色の薄手で固い弥生土器が用いられるようになり、稲作といっしょに全国に普及していきたい。三世紀前期に巨大古墳が造営されはじめるまでの約1300年間を弥生時代といい、この時代の文化を弥生文化という。

収穫した穀物を貯蔵するための高床倉庫を造り、共同で管理するようになる。

集落を守るために周囲に壕(ほり)をめぐらせた環濠集落が作られるようになった。佐賀県吉野ヶ里遺跡はその代表格である。

 

支那大陸

紀元前221年に、秦の始皇帝支那の統一を果たした。しかし、秦はわずか15年で滅びた。次に大陸を統一したのは漢である。最初の政権を前漢、後を後漢といって区別している。

220年に後漢が滅亡すると、魏、呉、蜀の三国が覇権を争う三国時代に入った。

支那王朝の歴史書には日本に関する記述があり、当時の日本の様子を知る手がかりになる。前漢の正史『漢書』地理志である。

次に日本の記述が登場するのは、後漢の正史『後漢東夷伝である。ここには、西暦57年に倭の奴国王が漢に使いを送り、皇帝が金印を授けたと書かれている。

 

神武天皇

邇邇芸命は山の娘と結婚して火遠理命(ほおりのみこと)をもうけ、火遠理命は海の神の娘と結婚して鵜葺草葺不合命(うかやふきあえずのみこと)をもうけた。

鵜葺草葺不合命がもうけた子が神倭伊波礼毘古命、まもなく初代の神武天皇に即位なさる方である。

日本書紀』によると、神武天皇は橿原(かしはら)に都を定めるにあたり詔勅を発せられた。ここには「八紘為宇」(はっこういう)という我が国の建国の理念が示されている。日本列島の人々が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすことを国の理想とする考えである。この建国の理念が、歴代天皇によって継承され、現在に至る。

日本書紀』は神武天皇の御即位を、紀元前660年元旦と伝えている。これを根拠に、我が国は、太陰暦太陽暦に換算した2月11日を建国記念の日として、毎年建国を祝っている。

 

下記書籍参照